永昌院の歴史

草創期

寺記によると、この寺の前身は真言宗でした。

曹洞宗、龍石山永昌院としての開基は、甲斐守護職、武田信昌(文安4年(1447)〜永正2年(1505))とされ、現山梨県笛吹市一宮町の中山廣厳院開山、雲岫宗竜(うんしゅうそうりゅう)の高弟、同院二世一華文英(いっけぶんえい)を開山(初代住職)に迎え、開創されました。

武田家系図(一部)
信満
信重
信守
信昌
信縄
信虎
晴信(信玄)
勝頼

武田信昌は法名を「永昌院殿傑山勝公大禅定門」といい、この寺に位牌を安置し、境内の墓所にねむります。

一華文英は存命中に天皇より「神嶽通龍禅師」の禅師号とともに「紫衣」を賜り、今に伝わっています。
一華はその後武州にわたって、現東京都青梅市、天寧寺の開山となり、当山は弟子により相続されて行きます。

「開山 一華文英」「2世 菊隠瑞譚」「3世 一樹存松」「4世 悟宗純嘉」「5世 敬翁性遵」「6世 謙室大益」と、名僧が相つぎました。

近世

その後、法灯は連綿として続き、門葉は甲州(山梨県)、武州(埼玉県)にわたり96ヶ寺を数えました。

江戸時代中期の「18世 庭山祖門」「19世 大機天用」の時(1710〜1720頃)には、曹洞宗常恒会地に昇格し、禅堂、衆寮、等を増築、伽藍(がらん)は数十棟を数える禅林(修行所)でした。
この時期、「22世 大晃越宗」「23世 天海董元」は、大本山永平寺の住職に就任しています。

明治42年(1909)不慮の火災に遭い、総門、鐘楼、経蔵の三棟を残してほとんどの建物を焼失しました。
しかし、幸いにも仏像をはじめ過去帳、古文書等の重要な宝物は焼失を免れ、すべて現在に伝わっています。

現代

その後、現在の本堂、開山堂、書院、庫裏等を再建、焼失を免れた三棟とともに 十数棟の伽藍が維持され、往時のたたずまいと、面影が保たれています。

平成11年(1999)には、時代の要請に従い駐車場も整備され、フルーツラインの開通も重なって交通事情は徐々に改善されつつあります。

平成20年(2008) は開山一華文英大和尚の500回忌にあたり開山五百回大遠忌法要、開基武田信昌公五百回忌法要などを修行致しました。開創五百年を経過してもなお周囲の環境と自然の織り成す四季折々の姿は変わることなく、永昌院の静寂は今もなお守り伝えられています。

(現住職44世 堀内正樹)