住職あいさつ
数キロに亘る巨大な一枚岩盤が見え隠れする山腹。龍の身体になぞらえられる一帯の山林。眼下に広がる甲府盆地を挟んで富士山を正面に望むこの場所は、いにしえよりの霊験あらたかな聖地であり、前身である寺が立っておりました。
その霊地に今から五百数年前、龍の化身と称される神嶽通龍禅師を開山第一世に招聘して山を「龍石」と名付け、武田信玄公の曾祖父武田信昌公の菩提を弔い、墓所を護るため、その法名永昌院殿から寺を「永昌」と号して「龍石山永昌院」が開創されました。
寺は変遷する時代の要請に沿うように発展し続けます。人に育てられ、人を育て、人々の帰依と信仰を集め、人々の帰依と信仰に護られて来ました。
また、明治時代には火災に遭い、多くの伽藍を失いました。しかし幸いにも仏像や過去帳、古文書など寺宝はすべて助け出され、今に残っています。その後、厳しい苦難の時代の中で復興を成し遂げ、檀信徒の皆様や、地域の方々をお迎え出来る環境も保たれ、今日までこの地に立ち続けて参りました。
今、第四十四世住職としてここに立ち、境内を見渡す時、あらためて先人の守り伝えて来られた想いが、澄んだ空気と共に体の中に沁み込んで来るような気がいたします。
曹洞宗の高祖、道元禅師は「行持報恩」を説かれました。「行持」は命の費やし方。先人が大切に育み、守り、伝えて来られた結果として今、私がここに立っています。ひたすらこの寺を守り、仏法を次の世に伝えて行くという「行持」をもって恩に報いたいと思っております。
更に太祖、瑩山禅師は「師檀和合」を説かれました。師は僧、檀は檀信徒のこと。寺を護り、仏法を伝えて行くためには、「師」」と「檀」の「水魚の昵(すいぎょのじつ)」、つまり水と魚のように親しい関係が不可欠である、という教えであります。
時代はこれからも遷り変わって行く事でしょうが、檀信徒や地域の皆様と共に、「龍石山」を護り、「永昌院」を伝えて行く事にこの身を献じたいと強く思っております。
永昌院 四十四世住職 堀内正樹